こんにちは、nikodriverのHumioです。 これから私の視点から様々なブログを書いていきたいと考えています。末永くお付き合いくださると嬉しいです。 最初に自己紹介をさせていただきます。
家より外が大好き
1948年、北海道日高の山奥で生まれ、電気のない生活を4年間経験しました。 障害名は、四肢機能障害。 疾患名は、先天性骨形成不全症。 この病気は、易骨折が特徴であり、多い時は1年に4回も骨折していました。 子供のころから活発な性格で、家の中で過ごすより、夏は真っ黒に日焼けするほど外で遊んでいました。冬は手袋が凍るまで遊んでいて、カチカチになると家に入りストーブに手袋を付けたまま「ジュー」というほど押し当てて瞬間解凍の技を使い、またすぐに外へ。 ただ、冷たさでマヒした感覚が戻りはじめるとしばらくはジンジンしています。
歩けなくても歩く?
外に出て遊ぶといっても歩けるわけではありません。 夏は、足に靴を履いて、手にはゲタ、冬は足と手に長靴を履いて、這って歩いていました。 家から半径50mくらいが活動範囲(遊ぶ範囲)です。 障害を持っている人はいませんでしたが、普通に遊んでいました。 殴ったり蹴ったりの喧嘩はできませんでしたが、口喧嘩では負けませんでした。 今、思い出すと懐かしいです。母に背負われることが唯一の移動手段でした。
歩きたい、歩かせたい
中学1年の秋、大学病院で骨の湾曲矯正手術を受け、補装具で歩ける…はずだった。 左足の大腿骨と下腿の手術を2回にわけておこなったが、下腿の骨はいつまで経っても付かない状態が続き、骨が付くには刺激が必要とのことで、腰からつま先までギブスで固めて歩行器で歩くように指示。何度もレントゲンをとったが付く様子はない。 入院からすでに半年が過ぎ、とりあえず補装具を付けて自宅療養をしながら様子をみましょうということになり、不完全な状態で退院。 腰や膝は曲げることができないので、立つか寝るかの状態であったが、ソファーに斜めに腰掛けるというか、寄りかかるような状態で生活が始まりました。 立てるといっても、歩けるわけではありません。ほんとにやっと立つことが精一杯でした。立っているときは、母が私のズボンのベルトを持って転ばないようにしていました。 2年ほど経ってやっと付いてきたのですが、長期間に渡って腰や膝を固定していたため、椅子に座れるくらいに曲がるまで半年近くかかりました。 これは、椅子に座れるようになったら学校に行こうと決め、毎日曲げる訓練をしましたが、一進一退を繰り返し、一生曲がらないのではないかと何度も思いました。
やっと復学
何とか座れるようになり、中学校へ行くことになりましたが、やはり母が背負って行くことに変わりはありませんでした。 私も少し成長し、補装具の重さも重なって、母の息遣いが背中を通して伝わってきます。 手術のために休学してから、復学まで3年経っていました。 骨折して休んでいるときもそうでしたが、家では一切勉強はしませんでしたが(勉強嫌いです)登校し始めると何とか追いついていました。 そうはいっても3年のブランクは不安でいっぱいです。 2年生の2学期から行ったわけですが、一週間くらいで中間試験があり、必死の勉強。 結果はクラス3位で、テストの内容を誰かが教えたと噂が出るほどでした。 この頃の集中力が今も欲しいです。 中学3年となると、高校受験で慌ただしくなってきますので、私も受験だけはしたかった。 合格しても通学できる距離ではないのですが、学力の証明みたいなものは手に入れたいと思い話をしたのですが、体育ができないという理由で受験はできませんでした。
通信制の高校なら自宅でできる?
郵便のやり取りで勉強ができると思い、NHK学園高校に入学したのですが、毎月一回スクーリングのために、約30Km離れた高校にいかなければならず、またしても母と父が交代で背負っていくことになりました。
車いす。こんな便利な乗り物があった
18歳のとき、父に「車いすが欲しい」と言ったら、翌日汗をダラダラかきながら抱えて買ってきました。夏の暑い日、押してくれば楽だったと思うのですが、タイヤが汚れないように新品を手渡したいと思ったのかなぁとその思いに泣きそうになりました。
母の背中からの脱皮
初めて車椅子に乗り「おっ動ける」・・なんか世界が広がった。 自宅から100mくらい離れた駄菓子屋に行くことが楽しい。 自分のお金を持って買い物をすることで毎日が生き生きとしてきました。自分で行きたいときに行くことができるとは、何か大人になった感覚。
私の人生の新たな出発点
19歳のときに、町田市に障害者の運転教習所があることを新聞で発見して、親に「ここに行きたい」と言うと案外あっさりと「そうだな」と了承。 この教習所は全国様々なところから来るので、寮があり、私も泊まり込みで練習。 泊まり込みといっても、午前実地1時間、午後学科1時間ですが、教習所と寮は車で10分ほど離れているので、朝から夕方までは教習所にいます。送迎つきですが、教習所には車いすトイレはないので、水分は一切とらないで寮に帰るまでトイレには行きませんでした。 8月だったので、汗が出るのでそんなことができたのかなと思いますが、今でしたら熱中症になっていますね。 約20日の教習の後、試験場で実地と学科の試験に合格、自動車運転免許を取得(軽自動車限定、手動装置限定)
えっ!買うのは反対
免許を取得すると、親に車を買ってもらえると思っていましたが、断固反対。 理由は「事故に遭って怪我をしたらどうする」でした。子供のころからイヤというほど骨折を繰り返して辛い思いを目の当たりにしている親にとっては当然のことだと思いますが(今は)ただ、そのくらいで諦めることはなく、自分で稼ぐとタンカを切ったものの稼ぐ方法はなく、やっと見つけたのが内職でした。毎日9時から夕方5時くらいまで電気部品の加工や半田付けをして450円が限界。それを1年続けてやっと貯めた10万円を頭金として軽自動車を購入。当時45万円だったと思いますが、残りは親に借りることにして、内職を続ける予定ではいたものの、結局は踏み倒してしまいました。(督促もなかった) 20歳で車の運転を始める(HondaN360)すべての自由を手に入れたかのように夢は際限なく広がりました。 この時期が、私の人生で大きな変革期と言ってもいいかもしれない。
稼ぐために
移動手段を手に入れた私の次の目標は仕事(稼ぐ)です。 これも簡単にはいかず、職業訓練校を探しましたが、車いすでは就職できないという理由で入校を断られ途方にくれましたが、川崎市に職業訓練と授産施設を併せ持ったところがあることを知り、親に見に行ってもらったが「あそこは、古くて暗いので行かないほうがいい」と否定的でした。ここでも強引な性格が頭をもたげ、自分で行って確かめてくることに。 移動が自由にできることは強引な性格もカバーしてくれる。 訪問して、ここに入所したいということを言うと、それでは話を聞きましょうということで別室へ案内され30分ほど話をしたところ入所は大丈夫なので、手続きをしましょうということになりました。
やっと念願の就職と生き甲斐
それから3年。時計の修理技術の訓練とインターン(授産です)を経て、25歳で東京時計製造株式会社に就職。社員2000人の大手の時計生産会社でした。 ストップウォッチの生産部門に配置され、自分の組み立てた機器が世の中に出て行って誰かが使ってくれる。こんな生き甲斐のある仕事はないと感じました。
えっ倒産?
ところが、その年の11月倒産。急に本社集合という連絡が入り、状況が分からない私は「ボーナスのことかな」などと期待して行ったところ、長々と話があった後今日はこれで帰っていいですということになり帰宅。親が深刻な顔で夕刊を読んでいる姿を見て、初めてただごとではないと悟りました。 会社そのものは、10年継続しましたが、給料の遅配や分割は当たり前で、ボーナスなどはありませんでしたが、入社まもなくなので、あまり異常事態のような感じはありませんでした。仕事はストップウォッチだけではなく、置時計や掛け時計をベルト作業で組み立てるラインに入ることも多くなり、ベルトで流れてくる部品を15秒で自分が担当する部品を組み付けていく作業が2時間続き、休憩10分、その後また2時間続いて昼食。 目が回るほど忙しいとは。こういうことかと感じるほど息を抜く暇もないほどでしたが、不思議と和気あいあいで楽しい職場でした。
なんと倒産の翌年には結婚しました。
6畳1間とキッチン。トイレはありましたが風呂はなく、私の実家まで入りに行っていました。今、考えると双方の親がよく許したなと思います。 少ない給料で分割なので、計画的に使えたといえば、そうかもしれません。足りないものばかりなので、休みの日には、まな板やスプーンなど身の周りで必要なものを買うのが楽しみでした。
会社整理、解雇
なんとか継続していた会社も、終わりはきます。12月の寒い中、神社の境内に集まり解散式。これからどうする…という重苦しい雰囲気で「それでは皆さん元気で」…。行き先が分からない状態で歩き始めたような不思議な感覚で帰ってきました。
職探し
私の最初の社員生活は終わったのですが、毎週職安(ハローワーク)に通い、探しましたが、あてもなく3ヵ月、半年と過ぎていきました。息子もすでに7歳、任せとけという顔をしていましたが状況は深刻です。生活保護の申請にも行きましたが、職業訓練のために学校にいくのはダメ(当時)と言われ、とにかく職探し。
国家試験に挑戦(人生の賭け)
翌年、身体障害者向けのコンピュータ講座が開設されたので、受講を決めました。 国家試験合格を目的とした講座だったので、必死です。 講座で使用しているパソコンと同じものを自宅でも購入。当時の生活状況での40万円は全財産を一か八かでつぎ込んだ賭けでした。 約1年通って、翌年の国家試験に合格(人生でこんなに勉強したことはない)
コンピュータ技術者として就職したが…
36歳で福祉用具販売会社にコンピュータ技術者として就職。 就職はしたが、プログラム言語が違う、講座で使用したのはパソコンですが職場はオフコン、社内でシステムを知っている人はだれもいない。 外部の方がメンテナンスに来たときに、背後霊のように何をしているか覗き込んで、その人が帰ったら同じことをやってみる。もちろん一度ではわからない。1ヵ月に一度くらいしかこないので、来る度に背後霊でした。 徐々に分かり始めると、講座で習ったことが生きてきてシステムの作り直しや、新規システムの構築、地方と通信回線でつなぐなど仕事に熱中する日々でした。 それでも定年はくるわけなので、60歳で定年退職。
定年はおめでたいこと
定年といっても無職になったことに変わりはなく、いろいろな申込書やアンケートの職業欄に「無職」と書いたり、チェックしたりするのは抵抗がありました。 近所の方に、「これからお仕事ですか」と言われ「定年退職しまして、これから買い物です」と言ったら「あら、おめでとうございます。頑張りましたね」と言われ、そうか、定年退職できるということは、おめでたいことだと思い、以後は「無職」でも抵抗はなくなりました。
現在の取り組み
現在は、障害者団体の手伝いや、障害者作業所のサポートなどをおこないながら、放送大学の在学生でもあります。また、障害関連の有無は関係なく様々なイベントに参加している。 昨年は、11月に開催された「超福祉展」では、初めてボランティアを5日間経験。 障害の有無とは何だろうと考える日々が続いています。
株式会社ニコ・ドライブとの出会い
アンプティサッカーの案内を目にし、何だろうと観戦に行った帰りに展示していたのが、株式会社ニコ・ドライブのハンドコントロールであり、取り外しができる手動運転装置でした。手動運転装置の車を運転するなかで最大の難点はレンタカーや試乗車に乗れない事です。 装置のついているレンタカーもありますが、事前に予約して移送してもらわなければならないため、必要なときに必要な時間だけ気軽に借りられるという状態ではありません。 しかも、工具は使わず簡単に取り付け、取り外しができるということは画期的だと思い、早速購入しました。いままでに、手動運転装置は載せ替えができないため、装置だけで300万円以上使ってきた。新車がもう一台買えてしまう。 これが縁で、現在は業務の手伝いをしながら、ブログも担当していく予定です。
新たな利用方法
レンタカーもそうですが、新車発表では試乗したいですよね。ハンドコントールはそれがいとも簡単にできてしまう。日産リーフのモニターに申し込んで3日間借りて試乗。アクセルの感覚、ブレーキの感覚、は実際に運転してみないと分かりません。 いままでは、新車を購入するときは助手席に乗って、ディーラーの方に運転していただいて何となく乗り心地を確認する程度でした。 そのため手痛い失敗をしてしまいました。車種などは控えますが、高速を走ったときに車が浮くような怖さを感じ、特に首都高ではそれが極端に表れたので、10ヵ月で別の車を買いました。購入条件は、試乗(隣に乗って)で高速を走ってもらうこと。 3車種くらい乗り比べて決めます。 よく同じメーカーで販売店が違うだけで、内容は同じという車がありますが、やはり乗ると違います。店頭では同じですと言いますが、整備担当に聞くと違いますとの返事(エンジニアの返事)、このときはサスペンションが違い、コーナーを曲がるときの安定性が違った。 ただ、ハンドルの切れ具合とか、曲がるタイミングの違いとかは実際に運転してみないと分かりませんね。
趣味(多趣味です)
趣味は、写真撮影やDPE。カメラはフィルムからデジタルへ、DPEは暗室からパソコンへ時代とともに変化してきたが、楽しさは変わらない。 アマチュア無線も趣味であるが、始めたきっかけは車移動で故障のときなどの連絡用としての意味が大きかった。このため携帯電話が出始めると無線から遠ざかってしまったが、知人からの勧めで、開局申請をしたところ、旧コールサインで開局の免許状がきました。
こよなく愛する自動車
車の運転も趣味であり、次々と新しい車に乗り換えた(多分14~15台) これは、最初の免許取得の審査で「君は軽自動車しか乗れないからね」と言われたことで、私の負けん気に火がついた。条件が緩和されるたびに試験場で試験を4回受けて普通免許にやっとたどり着いた。 軽自動車のときは、自分でできる整備はほとんどやった。オイル交換はもちろん、プラグ交換や清掃、ポイントの摺り合わせや清掃、タイミング調整、ブレーキ調整など(これはジャッキアップしてタイヤを外す作業を含む) エアークリーナーを外してキャブレターをむき出しにしてアクセルレバーを操作すると、あの独特な吸い込む音がたまらないが、次第に電子化されていき、手がだせなくなったのは寂しい。 毎日のように洗車して、2~3日おきにワックスがけをしていたので、近所の人から「あまり磨くと減るよ」と言われるほどだった。 ◎ 座右の銘:人生、日々更新
※重要なお知らせ
ブログの内容につきましては、弊社からみなさまへの情報提供とさせていただいております。
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